三日坊主のつぶやき -cootanと私  そして める -

愛猫クータンが☆になって  2代目 める と お花の日々
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初七日 

昨日、10月23日は、クータンの初七日でした。

早いもので、と言えばいいのか、まだ、と言えばいいのか。

この1週間の時間の経過は、自分でも表現が出来ない不思議な感覚でした。




おかげさまで、私は落ち着いています。
驚くことに、以前から自分で想像していたよりも、静かな気持ちで過ごせていると思います。


誰かと電話などで話している時に、つい込み上げることはありますが、一人でいる時にメチャメチャに泣きたくなることもありません。

何かをしている時に、つい意味もなく「ね~?クーターーーン」と呼びかけることがよくありますが、それに返事がなくても、それほど辛くなることもなく、

クータンの写真に向かってしょっちゅう話しかけていますが、そこにクータンの体がないことに、いたたまれなくなるほどの悲しみを覚えることもなく。




最期までがんばり抜いて逝ってしまったクータンの死に、どこか心の中で納得しているのかなと言う気がします。

小さな「ごめんね」はたくさんありますが、大きな意味の悔いはないのかもしれません。



精一杯介護させてもらえた最後の4ヶ月間。

クータンのことが愛おしくてたまらなくて、何度も泣いて、そうしているうちに少しずつ覚悟が決まって行き、クータンが逝ってしまった瞬間に、8年前から感じ続けていた「クータンの死」への恐れを、なんとか昇華させることが出来たのかもしれません。

私のために長い時間をかけていろんな差配をしてくれて、本当に本当にがんばってくれたクータンに、もうそれ以上を望むことは出来ないと、素直に思えるのです。






まったく寂しくないというわけではありません。

生活のすべてにおいて、クータンの不在を感じる瞬間ばかりです。


冷蔵庫を開けて、クータンが最後に食べた猫缶の残りを発見し、クータンが食べることの出来なかったフードの残りや、使い切れなかったお薬やぺットシーツを見ては、胸が痛みます。

最後の介護の時期、お洗濯の回数が増えていたので、買いだめした洗剤。

どんどん使ってもいいように買い置きしたティッシュの箱。

サークルの中をきれいにしておこうと思って買った粘着テープのコロコロ。


どれを見ても、一つ一つが胸にチクチクと刺さります。



テレビをつければ、音の大きさが気になって、でも、「もうそんなことを気にすることもないんだな」と思ったり、

掃除機も、もう気にせず使えるんだな。

もう焼き魚でも何でも、好きなものを食べていいんだな。

仕事に行く時に、部屋の換気を気にしたり、暑さ寒さに気を配ることもなく、急いで帰る必要もなく、もうクータンのことを気にすることもなく、お泊りだって出来る。


そんな悲しい自由をひたひたと感じています。

クータンがいてくれた時の不自由さは、とても暖かく満ち足りていました。

クータンがどれだけ私の生活のすべてだったか、クータンがいなくなった今、痛切に感じています。



でも、その失われてしまったことを想って泣いていては、なんだかクータンに申し訳ない気がして。

「ママ、せっかくのワタシの努力、無駄にしないでね」

と言っているような気がして。




クータンの体を天に返した次の日は、仕事でした。

細々とした注文があるちょっと大変な感じの内容で、クータンを亡くしてしまった直後ということもあり、仕事に行くのが正直辛くて重い気持ちでした。

出かける時に、クータンの写真に向かって、いつもそうしていたように、「じゃあね、行って来るからね。いい子で寝んねして待っててね」と言った瞬間、左側の胸の上の方が、フワッと暖かくなりました。

それは、いつもクータンを仰向けに抱っこした時に、クータンがそっと手を当ててくれる場所なのです。




「あ、今、クータンがここに入った」



と思いました。



私は今まで、正直に言うと、「体はなくなっても、魂はいつも一緒だから」なんて、ただの慰めの言葉だと思っていました。
クータンがいなくなってしまったら、ものすごい喪失感でどうなってしまうかわからないと、本気で恐れていました。

でも、そのポッとした暖かさを感じた瞬間に、「いつも一緒」と言う言葉を、確かなものに感じられた気がしたのです。


この1週間、想像して恐れていたよりも落ち着いた気持ちで過ごすことが出来たのは、そんなことがあったからかもしれません。



まだクータンの夢は見ていません。

なんとなく、これからもクータンの夢は見ない気がしています。


でも、それでいいと思っています。

私の中で、クータンはまだ生き続けていると思うから。



実際には、まだまだへなちょこで、これからもクータンのことを想って泣いてしまうことはあると思います。

矛盾しているかもしれませんが。






今はまだ、胸がつかえているような感覚が、四六時中ずっと続いています。

何気ない生活の中で、チクチクと痛みを感じることもしょっちゅうですが、それも含めてみんな、クータンと私が積み重ねて来た21年間の証であり、その続きなのでしょうね。


「猫見知りのクータンだから、ずっと1頭飼いのままで最後まで看取る」と決めた時から、自分で引き受けなくてはならない痛みなのだと思っています。



でも、その痛みを、私が恐れていたよりも軽くしてくれたのは、他ならぬクータンと、こんなへなちょこな私を支えてくださるネットのお友達だと感謝しています。


多くの皆様からの暖かいメッセージ、

クータンのことをブログに書いて偲んでくださったお友達。


うれしくて何度も読み返しています。
ありがとうございます。

「クータンが死んでしまったら、どこまでも果てしなく落ち込んで、きっとネットの世界からもスピンアウトしてしまうかも」なんて、ずっと笑い話のように言い続けてきましたが、それはまったく逆でした。


へなちょこな私を心配して、支えてくださったのは、ネットのお友達の力でした。


私は大丈夫です。

ぼちぼち元気を出して、やって行きます。


これからも、どうぞよろしくお願いします。



               クータンと皆様へ     たくさんの感謝を込めて




Comment

頑張らなくても良いよ
編集
クータンがいなくなり寂しい気持ちは痛いほど
分かります。
私も犬のくまに朝お仕事に行く時はくまちゃんお仕事に
行てくるよ。
行かないでと吠えるくまに言い聞かせお仕事に行きます。
帰ると興奮して部屋中を駆け巡り笑てしまいます。
クータンは居なくなってもmayuさんの心にはいつも
いるのですよね。
時間が薬と言います。
今mayuさんに何を言ても辛いと思います。
少しづつ時間が経ちmayuさんの気持ちにも余裕ができることを信じてクータンのことを思ってください。



2008年10月24日(Fri) 19:11
編集
私もハル様がいなくなったら生きていけないと思っていました。
その時を考えると怖くて怖くて涙が止まらなかったです。

でも、ハル様が長い散歩にでかけたとき、Mayu-☆さんと同じように想像していたよりも穏やかな気持ちでいることができました。
それはハル様の愛情に包まれていたから。
ハル様の愛情が体が透明になってしまっても私のことを包んでいてくれることを感じることができたから。
ハル様の愛情が私を生かしてくれると分かったからです。
体は透明になっても、愛情はいつまでも一緒。
褪せることなく、時間と共に増していきます。

Mayu-☆さんとクータンもずっと一緒です。
クータンの愛情はずっとずっとMayu-☆さんを包み込んで守ってくれるから。

それでもたまに恐ろしいほどの喪失感に大泣きしてしまいますが、泣くことも大切だと思います。
たくさん泣いて泣いて、泣きつかれたときにまたクータンの愛情がMayu-☆さんを優しく包んでくれると思います。

「ずっと一緒」

ですよね(^^)
2008年10月25日(Sat) 00:30
管理人のみ閲覧できます
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008年10月25日(Sat) 07:17
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008年10月25日(Sat) 10:31
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★れみりんさん
クータンが残してくれた強力な時薬のおかげで、気持ちはどんどん落ち着いて来て、今の状況にも慣れて来つつあるようです。
しょっちゅうクータンのことを思い出し考えていますが、もう悲しい気持ちはだいぶやわらいで来ました。
ありがとうございます。
れみりんさんとくまちゃんとの時間が、これからもずっと続くことを、クータンと私も祈っていますね。
2008年10月28日(Tue) 14:08
編集
★TAMIさん
TAMIさんもそうだったのですね。
まだ生きていているうちの方が、怖かったですよね。
実は私、中学時代に一番最初に拾った子が亡くなった時、だいぶ経ったある夜に、突然「もう一度抱っこしたい!!もう一度撫で撫でしたい!!」と言う想いが突然襲ってきて、その喪失感の大きさに胸が苦しくてどうしようもなくて、夜中に一人で大泣きしたことがあるのです。
その時の胸の痛み、苦しみがトラウマになっていて、もしクータンが亡くなってしまったら、と考えるだけで、恐怖でした。
その時にはまだ家族と暮らしていましたし、その子と一緒だったのは3年くらいのものでしたから、あの時の比じゃないんだろうなぁって。
でも、長く一緒に居ると言うことは、喪った悲しみも大きいけれど、それまでの幸せも多いから、決して長さだけで決めることは出来ないんだなとわかりました。
かえって、思い残すことがないように過ごしてこれた分だけ、幸せが多いのかもしれませんし、自然に「ずっと一緒」って思えるようになれるのかもしれませんね。
願わくば、この先も、そんな大きな喪失感が襲ってこないことを祈っているのですが。
2008年10月28日(Tue) 14:32
編集
★YODAさん
読んでいただいて、ありがとうございます。
クータンが逝ってしまってからのことを書くことで、胸に空いてしまった大きな穴を埋めようとしていたのかもしれません。
そうしていることで、無意識に心の均衡を取ろうとしていたのかも。
もうひとつ確かに言える大きな理由は、「クータンが生きた証を残しておきたい」という想いでした。
書いておくことで、クータンのがんばりを残しておきたかったのです。
そんな想いで書き始めましたが、書いているうちに多くのことに気が付き、最初の意図とは別のところで、とても救われた想いがありました。
私はそんなに立派なママではありませんでしたけど、クータンは本当に立派なお猫さまでした。
私も、いつかクータンに会える日が楽しみです。
2008年10月28日(Tue) 14:52
編集
★makikoさん
ブログを読んでいてくださって、ありがとうございます。
makikoさん、私よりももっと辛い思いをされたことと思います。
それなのに、こうして私に優しい言葉をかけてくださって、本当にありがとうございます。
時間が薬と言うのは、本当ですね。
毎日何を見てもクータンのことを考えてしまいますが、こうして少しずつ気持ちが癒えて行くのを待つしかないのかな、と思います。
でも、思っていたよりも元気ですので、どうぞご心配にならないでくださいね。
メッセージ、とてもうれしかったです。

2008年10月28日(Tue) 15:01












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